6月に行った名取でのこと


再びオランダに戻り、もうすぐ1ヶ月が経ちます。書こう書こうと思いながらこんなに遅くなってしまったけれど、6月再び名取に行った3日間のことを残そうと思います。






名取に着いたのは13日の夕方でした。地球のステージ・東北国際クリニックのみなさんと、ニッコー看護士のむねさださんと、そしてこの日から同じ3日間九州から来られた田中先生との再会。嬉しい嬉しい瞬間が続きました。興奮状態の中、最近の名取について、最近の活動について、そして前回は話さなかった個人的なことについて、みんなで食事をしながら話をしました。


翌朝自転車で被災した閖上へ行きました。住民以外は立ち入り禁止となっているようで、どこかで止められるかとドキドキしながら走りました。写真や思い出の品が集められている閖上小学校の体育館は、朝早いせいかがらんとしていました。4月に来たときから写真が減っている様子はなく、むしろ増えたように思うくらい床いっぱいにケースが並んでいました。その中の一部は、持ち主が特定されたアルバムのようで、袋に名前が書かれて五十音純に整理されていました。津波に流され、泥の中から見つけ出され、偶然にも写真に映る人を知る人の目にとまり、持ち主までわかっているのに今も残されている写真。一人の家族も生存されていないのかもしれない…、この写真みたいにこの家族を探し続けて待ち続けて3ヶ月を過ごした人がどこかにいる…。厳しい現実をまた目の当たりにしました。


閖上を一望できる日和山へ向いました。コンクリートの家の土台までもすでに無くなり更地のようになっていました。これが復興なのかもしれませんが、跡形がなくなっていくのを、なんとなく寂しく感じてしまいました。日和山に着くと、流されてなくなった鳥居を新たに立てようとされているその最中でした。そこには4月に知り合ったNGOのスタッフの方と、大工さんらしき男性群がいました。そのうちのお一方は偶然にも、私が名取で初めてお話した被災者の方だったあのおじさんで、早速の再会に喜びました。聞くとその木も津波に倒され流れたものでした。津波を乗り越えてそこにいるおじさんたちやその鳥居は、被災地の強さの証のようでした。


午後から桑山先生の車に乗せてもらい、再び閖上に行きました。被災者の方と日々体当たりで向き合われている先生は、被災地を見ながらここではこんなことがあったんですと語ってくださいました。人間の本当の話は私の心に強くうったえかけ胸の奥までしみてきます。クリニックを出発して間もなく雨が降り出しました。みるみるうちに大粒になり、閖上に着いたころには大雨になっていました。先生の話に刺激されて被災された方の魂がいっせいに飛び出して来んだとそんなふうに感じました。田中先生も同じようにそう言われて、あとでみんなで頷いていました。


そのあとはいよいよおばあちゃんとの再会でした。田中先生とおばあちゃんが抱き合う姿を見た瞬間から私は涙が止まらなくなっていました。この日が必ず来ますようにと祈ったあのさよならの日を思い出すと、よかった…とただただ嬉しくて仕方ありませんでした。今もおばあちゃんの近くにおられる後藤さんと田中先生と4人で、おばあちゃんの用意してくれていたお菓子とお孫さんが用意してくださったお漬け物を頂きながら、あの頃のことや今のことを話しました。温かくて優しい時間。おばあちゃんの苦しみを少しでも肩代わりしてあげられたらいいのにと思うけれどそんなことできるはずもなく、またこうして次みんなで会える日までおばあちゃんが元気でいてくれますようにと、そう祈るばかりです。


おばあちゃんのお宅から帰って来て、急いでむねさださんに少し離れた仮設住宅に連れて行ってもらいました。肩もみサラダでお世話になった班長さんとの再会でした。仮設住宅の中を覗かせてもらい、悪くないよ、とおっしゃられたそのひと言に小さくほっとしました。そして前もそうしてくださったように、今の状況を熱心に話してくださりました。人は移動したものの自治会ができていないこと、そういった細かなサポートがほとんどないことなど、やはり今は今の課題がありました。ほんのささいなことでも何か自分にできればいいのに…とそんな自分の気持ちに改めて気付いて一瞬落ち込みましたが、隣にはむねさださんがいてくれていました。むねさださんは被災した子どもたちへ向けたプログラムを担当されています。被災者の方ととことん向き合うこんな心強い存在が、一人でも多く被災地におられますように…またまた祈る私です。(数週間後、地球のステージのブログで、仮設住宅での自治会発足へ向けた動きがあったと拝見することができました。)


他にもお会いしたかった人がいましたが、どなたがどの仮設住宅に入られて何号棟の何号室にいらっしゃるのかわからず、再会は叶わずでした。電話番号を教えてくださいとそのひと言がなぜ言えなかったんだろうと、4月の自分を悔やみました。そしてこの3日間も。もんもんと過ごしたオランダでの1ヶ月とのギャップにとまどっているうちに過ぎてしまい、泣いてばかりため息をついてばかりで、後でそんな自分が情けなく恥ずかしくて仕方ありませんでした。


いろいろなことを考えさせられます。生きることや、死ぬこと。家族のことや仲間のこと。社会の一員としての自分や、何もしていない今の自分について。自分の中の根本的なところを見つめなおし、どう生きるのか問いたださないといけないんだと思います。おもいっきり自分の人生を生きる覚悟であたえられた命に精一杯にのぞむ、名取で学んだのはそういうことなんじゃないかと…


状況は常に動きつつあるのかもしれませんが、東北の方々、福島の方々が大変な時と闘い続けられていることは決して忘れません。遠く離れていますが、一人の人間として責任をもって生きる道を探していきたいと思います。





東日本大震災・名取の報告(4/29〜30)





4月30日 日和山公園の丘の上から


29日の朝、いつもより早起きしておばあちゃんに会いに行きました。田中先生が帰ってからは毎日おばあちゃんのところへ通うようになっていました。最後は少し歩きに行こうと約束していて、すぐ近くの建設中の仮設住宅のところまで行きました。4月の半ばでは先が見えていなかった仮設住宅の目処は、その後6月末までに必要数の建設が完了することが発表され、あっという間に形になっていました。けれど心の傷が癒えるのは、あっという間とはいきません。余震が続いている以上、まだまだ震災の渦中にいるようで、次の一歩を踏み出そうという気になるのはすごく難しいことです。復興へのスピードの早さがプレッシャーになりませんように、そう祈ります。この前日、おばあちゃんは去年穫れた貴重なお米をくれました。海水に浸かった田んぼでは塩害のため、少なくとも3年はお米が作れないと言われています。田んぼが復活したとき、おばあちゃんがお米を作ろうと思う元気を持っていてもらうために、自分は何ができるのか…私の目標が一つここにある気がします。いつかおばあちゃんの田植えのお手伝いができたらどんなに素敵だろうと想像すると今からわくわくするのです。再会を約束して、2人で涙をふきながら長い時間をかけてさよならをしました。


この日も肩もみサラダに行きました。前日、5月もクリニックに残られる看護士さんと話合い、私が抜けてからも引き続き実施しようという話になりました。またボランティアの主婦の方も、この肩もみサラダとは別に、平日の炊き出しでお手伝いしたいという申し出をしてくださいました。早速今後について食事担当の班長のお母さんにご相談し、実施の予定が決まっていきました。そしてここでも離任の挨拶をしなければいけませんでした。帰ります、そう言うことから逃げたい自分がいました。ずっとここに居たいと、そんな気持ちになるような温かさに毎週ここで触れさせてもらったことに感謝しています。


肩もみサラダを終えてクリニックに戻ると、地球のステージを訪ねて来られていた方が私の送別会の準備をしてくださっていました。福井からわざわざ持参してくださった材料での手づくりの豪華なメニューに驚きました。この1ヶ月、地球のステージの事務所で本当にたくさんの方にお会いしました。全国津々浦々の素敵なサポーターの方々、取材に来るメディア班、医療関係者…、事務所には差し入れが耐えませんでした。こんなにも応援が寄せられるのは桑山先生はじめ、地球のステージのスタッフの方への厚い信頼があるからこそです。どんなに仕事が忙しくても、心配りはいつも温かく丁寧で、私たちは心地よく安心して暮らすことができました。こんなふうに人と接し、こんなふうに働けるようになりたい、そう思える方々に出会えたことは、本当に貴重なことだったと思っています。


この日は引継ぎ書の作成などで、朝方までパソコンをたたいていました。余震が何度かありましたが静かに夜が更け、無事太陽が昇り明るくなったとき、ほんの少しすがすがしい気持ちでした。少しだけ睡眠をとり荷づくりをし、閖上を一望できる日和山公園に行きました。小さな鳥居があった公園のはずですが、何もかも流されほんの小さな丘だけが残っています。丘の上には被災された方々への祈りが捧げられています。見渡す限り焼け野原のように荒れていて、一部では撤去が済んで家の土台のみになっていました。カメラのレンズを望遠にして覗くと海が見えました。あの日の大きすぎた波を想像するのは怖いことでした。別の方向を覗くと、そこには瓦礫と化したものたちが積み上げられた山があり、何台ものユンボが乗っかっていました。重機のガァーッという音が常に鳴り響いています。自衛隊の車や大きなトラックが行き来し、日常の世界からは遠く離れた別の世界に来ているようでした。丘を降りて壊れた閖上の街の中を歩きました。港があり市場があり、小さな商店や理髪店やバス停や郵便ポストがある元の街の様子を想像し、そこに私が知り合った人たちが歩いていたところを思い浮かべました。私がそんな風景を見れることは二度とないと思うと涙が溢れました。津波が呑み込んでいったものはあまりに多すぎます。残された自分たちはここから何を思えばいいのか…その答えを残骸の中に見いださないといけないような、そんな気持ちでいました。


クリニックに戻り、お世話になった大好きなみなさんにお礼を言ってさよならし、空港に送ってもらいました。旋回するとき飛行機の窓から閖上がよく見えるよ、と教えてもらった通り、空の上からくっきりと灰色の閖上全域を見渡せました。傷付きぼろぼろになった街が、東北の太平洋沿岸に次々にあることを思うと今でも信じられません。大きなことはできなくても、1人の人間として、責任をもって現実と向き合い、丁寧に毎日を生きたいと思います。



東日本大震災・名取の報告(4/26〜28)



4月26日の仙台空港周辺



クリニックは緊急用に電話は常に受けていましたが火曜日の午後は一応お休みでした。看護士さんもフリーとなるので、26日一緒に被災した地区と避難所をまわりました。


被災した地域では信号が復旧しておらず、手信号を出すのに警察が交差点に立っています。これはと震災後から変わらなかったのですが、この頃になると進入禁止が出ている箇所が多くなり、車を走らせていても止められることが増えました。そしてある進入禁止の看板には「ヤジウマ帰れ」と落書きされていました。私たちは時々被災した閖上へ行くことがありました。新しく来られた看護士さんに名取がどんな状況かを知ってもらうためであったり、私自身が気になって行くこともありました。被災された方と向き合うとき、どんな苦しみを抱えておられるかを知り、その悲惨さを感覚として自分の中に持っておくことは必要なことでした。しかし被災地に入るときはいつも申し訳ない気持ちがし、そして緊張が走りました。私たちは瓦礫と簡単に言ってしまいますが、ひとつひとつ誰かにとって愛着のある品々です。閖上小学校に集められた写真と同じように、大切な思い出がつまった宝物です。プライバシーの領域にあるはずのそれらが何の囲いもなく誰からでも簡単に見えてしまう所へ行って実際に目にしてしまうことは、どこかで後ろめたさがありました。ごめんなさい、そう思いながらも、誠意を持って向き合うことを誓い、私たちは閖上地区と仙台空港周辺をまわりました。


私たちはそのあと避難所へ行きました。肩もみサラダをしている避難所の子どもたちとはすっかり顔なじみになっていました。皆が皆ではないけれど、放つ言葉がきつい子もいれば、叩いたり抓ったりしてくる子もいました。普段から子どもと接しているわけではないのでこれがどれくらい特別なのかはわからないのですが、彼らのストレスを感じるほどに心が痛くなるのでした。


28日は閖上小学校、中学校の保護者の方へ向けて、桑山先生が子どもたちのための心理社会的ケアについてお話しされるのに同行しました。それぞれの校長先生からのお話、桑山先生のお話、そして保護者の方からの質問に私はまた涙していました。母として、教師として、それぞれが大きな不安と戦っているという重い空気が、大きな体育館いっぱいに満ちていました。



東日本大震災・名取の報告(4/23〜25)



4月24日の肩もみサラダ

4月25日の運動場にて(子どもが私のカメラで勝手に撮っていました。空がきれいです。)



23日は田中先生が帰られる日でした。先生は、どんなに疲れていても、被災者の方のことを常に想い、活動について熱心に考え、そして私たちメンバーに優しい笑顔を絶やすことがありませんでした。誰からも厚く信頼される先生の働きかたに、私は強く感銘を受けました。


先生が帰る前に一緒に隣の避難所へ行き、親しくされていたおばあちゃんに会いに行きました。7日の地震の夜に診察されてから、先生は時間があればおばあちゃんを訪ねていて、私は時々同行させてもらうようになっていました。おばあちゃんは申し訳なさそうに胸につかえた悩みを打ち明け、そしてがんばらないかんっちゃねぇと自分に言い聞かせるように笑顔を見せてくださりました。そんなおばあちゃんに私は励まされていました。おばあちゃんのふるまい一つ一つに素敵だなぁと心惹かれ、そして自分も頑張ろうと思うのです。頼りにしている田中先生が帰る…この日おばあちゃんの寂しそうに泣く姿に耐えられなくて、私も泣き、先生も泣いていました。お二人の絆に私は感動していたんだと思います。誰かの存在が、誰かとのつながりが、今日を乗り越えるためのエネルギーになる…真の思いやりの心があれば、私たちは誰かのそんな存在になることができます。素晴らしいことを学ばせてもらいました。


先生とさよならし寂しくなっていましたが、幸いにもこの日の午後、前任者の友人が名取に来てくれました。石巻での活動を終え、帰りに寄ってくれたのです。一緒に避難所を周り、彼女は仲良しだった子どもたちとの再会を果たしました。帰って来たの?と言って飛びつく嬉しそうな子どもたちの姿が嬉しく思いました。ずっと気にしてるからね、そんなメッセージが被災された方に届くことが今はとても重要だと思います。



24日は4回目の肩もみサラダでした。これまでのメンバーに加えて、クリニックのすぐ側の仮設住宅を建てに来ている若い大工さんや桑山先生の息子さんも参加してくださりなんと15名という大所帯でした。何かしたい、そんな想いを持ったいろいろな立場の人がこうして集まり、心をひとつにして行けることが嬉しくて仕方ありませんでした。私たちは肩もみチームと、子どもたちと遊ぶチームに分かれました。運動が不得意な私は傍観者でしたが、子どもたちも看護士さんもごちゃまぜになっておもいっきりボールを蹴っていました。


そして25日、もうお一方、陸前高田と名取で診察にあたられてきた香先生が帰られました。先生が名取に来られたのは、私は最も疲れがたまっていた頃で、先生はほんの少しのことでも誉めたり、休んだほうがいいと説得してくださりました。先生に優しい言葉をもらう度、私も誰かに優しくしたくなりました。共同生活をしながら働くというとき、ちょっとした優しさの循環がチームの支えになるということを身を以て感じました。



東日本大震災・名取の報告(4/20〜22)



4月20日仙台空港(水に浸かったところまでガラスが汚れています)


4月22日の増田川


20日は2名の看護士さんが帰られる日でした。14日に帰られた看護士さんも含めて、みなさん本当に熱心でまっすぐで優しい方たちでした。ずっと一緒だったお二人が帰ってしまうと、自分が想像していた以上に力が抜けてしまい、クリニックに戻ると急に感情が溢れてきて、壊れたように涙が止まりませんでした。


専門家ではなく私のようにコーディネート役として入ってる場合、直接被災者の方をケアする専門家の方が少しでも仕事に集中してもらえるよう環境を整えるということが、重要な仕事の一つでした。しかしそのことを組織としてどこまで理解しているのかいら立ちや葛藤もあり、大切な仲間である看護士さんをくたくたにさせてしまったことが悔しくて仕方ありませんでした。こうして支援に入る時、被災された方のための活動をするという目的はどんなことがあっても見失ってはいけない、これは確かなはずです。そのことがぶれはじめると、悪循環の末人間関係にも歪みが生まれかねません。それは結果として支援の質が下がることになります。もっと責任を持ってメンバーの生活環境整備に努めなければいけなかった、これが名取での私の最大の反省でした。残すは10日間。気持ちを落ち着かせて再出発したほうがいい、そう思い、22日に一日休みを取り近くのホテルに泊まることを決めました。


22日の朝、田中先生の散歩についていきました。すぐ側を流れる増田川沿いを歩くと、大きく陥没しているところがありました。ここが被災地であることを改めて思い知らされました。川沿いにある小学校の側には桜の木が何本かありました。関西よりも東北の桜の季節はだいぶ遅く、まだ花がきれいな木もありました。東北に来てからゆっくり見上げたりはすることはありませんでしたが、気仙沼でみた桜も名取の桜も美しくて励まされているような気分でした。


朝食をとってクリニックを出て名取のホテルに車を残し、電車で仙台へ出かけました。1人でレストランに入ると、片側のテーブルでは震災の話、片側では震災とは別の話をされていました。頭まるごと震災のことばかり考えてきたこれまでから、ほんの少し離れたことを実感した瞬間でした。



東日本大震災・名取の報告(4/17〜19)




4月18日の閖上小学校


名取に戻って3回目の肩もみサラダ。これまでの2回、一緒にやってきた看護士さんが1人離任され、少し寂しい気持ちもありましたが、地球のステージのボランティアさんや整体師さんも来てくれ、9名で行ってきました。避難所におられる方は親戚のお宅に移られるなどして、先週より20名近く少なくなっていました。避難所の様子は行く度に変化があります。各家族ごとのスペースをしきる壁ができていたり、畳が配られていたり、自衛隊からの温かい汁物が届けられるようになっていたりと改善が見られることもよくあります。しかしその一方で、住まれているみなさんの表情や子どもたちの態度には、疲れやストレスがますますたまってきているのを感じます。帰り際、食事担当の班長のお母さんに翌日改めて近況をお聞かせ頂くことをお願いして小学校を後にしました。


翌朝は閖上小学校へ行きました。運動場、1階は津波にやられてぐちゃぐちゃです。ここの3階に、あの日多くの人が避難されました。その体育館では少し前から、周辺地域で見つかった写真がボランティアの方によって泥がふかれて、並べられるようになっていました。そして思い出の写真を探しにたくさんの人が集まっていました。知っている方の写真があるかなと思いながら見始めましたが写真は相当な量で、見つけ出すのは大変な作業だとわかりました。赤ちゃんの写真、家族の写真、恋人同士の写真、修学旅行の写真、結婚記念の写真…。体育館はどろどろになってしまった宝物で溢れていました。我慢できなくなって体育館の裏に出て泣きました。人前にいることが多くて泣くのをこらえることに慣れてきていましたが、この頃はそろそろ限界が来ていっぱいいっぱいになっているのを感じていました。非常事態での日常は気付かぬうちに心身を疲れさせています。厳しい現状を目の当たりにしながらありったけの力を注いでいる最中、テレビの報道では名取が映し出されることが減ってきていました。私たちはよく、ここが忘れ去られてしまうのではないかという不安を互いに口にし合っていました。支援に来ている自分たちでさえそう感じてしまうのだから、被災者の方々はもっとそうだと思うと悔しさに似た思いさえありました。すっかり名取に愛着を持っていました。物資を届けることや炊き出しをすることだけでなく、コミュニケーションをとり続け、忘れられていないと感じてもらうことが実はすごく大切なことじゃないかと、そんなことを考えながら動くようになっていました。


午後、約束をしていた班長さんに会いに行きました。世間話をするように、体育館の外に少しの間腰をかけて話していました。連休が終わると、支援も人もぐんと減るのではないかと心配していました。4月いっぱいで帰る自分を棚に上げて人手が減ることを不安がるなんておかしいと思いながらも、すぐにできる対策などなかなかなく、私も同じようにため息をつくくらいでした。


19日、この日は閖上小学校、中学校の生徒を対象とした心理社会的ワークショップ(集団での活動を通して自己表現や意識化のプロセス、分かち合いの場をもつことで、PTSDを予防し、心をケアするワークショップ)の開始へ向けた、桑山先生による学校の先生方へのブリーフィングに同行しました。閖上小では1名、閖上中では12名の生徒が亡くなっています。先生方は涙を浮かべながら桑山先生に質問を投げられていました。教室の空気は熱く一つになっていました。これから名取はきっと立ち上がれる…と、そんな気がして帰ってきました。