東日本大震災・名取の報告(4/26〜28)



4月26日の仙台空港周辺



クリニックは緊急用に電話は常に受けていましたが火曜日の午後は一応お休みでした。看護士さんもフリーとなるので、26日一緒に被災した地区と避難所をまわりました。


被災した地域では信号が復旧しておらず、手信号を出すのに警察が交差点に立っています。これはと震災後から変わらなかったのですが、この頃になると進入禁止が出ている箇所が多くなり、車を走らせていても止められることが増えました。そしてある進入禁止の看板には「ヤジウマ帰れ」と落書きされていました。私たちは時々被災した閖上へ行くことがありました。新しく来られた看護士さんに名取がどんな状況かを知ってもらうためであったり、私自身が気になって行くこともありました。被災された方と向き合うとき、どんな苦しみを抱えておられるかを知り、その悲惨さを感覚として自分の中に持っておくことは必要なことでした。しかし被災地に入るときはいつも申し訳ない気持ちがし、そして緊張が走りました。私たちは瓦礫と簡単に言ってしまいますが、ひとつひとつ誰かにとって愛着のある品々です。閖上小学校に集められた写真と同じように、大切な思い出がつまった宝物です。プライバシーの領域にあるはずのそれらが何の囲いもなく誰からでも簡単に見えてしまう所へ行って実際に目にしてしまうことは、どこかで後ろめたさがありました。ごめんなさい、そう思いながらも、誠意を持って向き合うことを誓い、私たちは閖上地区と仙台空港周辺をまわりました。


私たちはそのあと避難所へ行きました。肩もみサラダをしている避難所の子どもたちとはすっかり顔なじみになっていました。皆が皆ではないけれど、放つ言葉がきつい子もいれば、叩いたり抓ったりしてくる子もいました。普段から子どもと接しているわけではないのでこれがどれくらい特別なのかはわからないのですが、彼らのストレスを感じるほどに心が痛くなるのでした。


28日は閖上小学校、中学校の保護者の方へ向けて、桑山先生が子どもたちのための心理社会的ケアについてお話しされるのに同行しました。それぞれの校長先生からのお話、桑山先生のお話、そして保護者の方からの質問に私はまた涙していました。母として、教師として、それぞれが大きな不安と戦っているという重い空気が、大きな体育館いっぱいに満ちていました。