東日本大震災・名取の報告(4/14〜16)




4月14日、15日の気仙沼


14日、朝一番で一関を出て陸前高田に向いました。約10日後には炊き出しをスタートできるよう、調理師や調理場所や提供先を調査、検討するために、上司について気仙沼へ行きました。陸前高田から車で約45分。近づくにつれ、大きな船がごろごろと転がっていて、テレビでは見ていましたがやはり衝撃でした。まずは市役所を訪ねました。気仙沼ではNGOのスタッフが1人専属で入り、ボランティアや物資等の支援受け入れの指揮を執られていました。避難所の数や状況、他の支援団体がどの地域で始めようとしているのか、食材の調達方法の可能性や人財の確保について情報を共有させてもらいました。昼食を済ませたあと、避難所調査と調理師探しの二手に分かれることになり、私は調理師を探しに国道に沿って沿岸の被災地とは逆方向に進み飲食店を訪ねました。店が水に浸かったために営業できないところがある一方で、少し進んだ先では営業しており、聞くと震災前より客が多いということでした。ここもまた街ごと壊滅した陸前高田とは異なり、被災した地区とそうでない地区が共存している街でした。何名か協力してもらえそうな調理師と連絡先を交換し、避難所組と合流してから陸前高田に戻りました。


陸前高田の宿舎は2カ所に分かれていました。一カ所は市内の山の上にあるキャンプ場のコテージで、ここは水は出ませんが電気は使えました。もう一カ所は陸前高田から40分ほど車で走ったところにあるキャンプ場のコテージで、こちらでは食堂もありお風呂にも入れました。10名を超えるスタッフ・専門家は、何日かに一度はお風呂に入れるようこの2カ所を交代で行き来し、生活をしていました。避難所の生活に比べると何倍も恵まれているのは言うまでもありませんが、生活拠点が定まらず移動に時間がとられることによるスタッフの疲れはかなりのものでした。陸前高田で合流してから、私自身も気持ちの余裕が一気に失われていくのを感じました。生活の基盤が複雑なせいで、コミュニケーションをとったり落ち込んだり悲しんだりするタイミングがないことがその原因のように思いました。テレビのニュースでは支援者の休息や心のケアの必要性が強調され始めていました。自分たちの心身の健康管理を如何にするかが大きな課題となっていることは明らかでした。


15日も気仙沼へ行き、前日とは違う地区の避難所をまわりました。小さな小学校の家庭科室に集まっていたお母さんたちがこう話しました。この小学校は火の手に囲まれたけれど、なんとか焼けないよう地域のみんなで守り抜きました。それもあって、今は避難所に暮らさない人たちも一緒に、ここに届く水や食材で料理して食べさせてもらっています。地域の結束力の強さに驚き感動しました。おっしゃられたように周囲は一帯、黒く焼けこげていました。お話を聞かせて頂いたお礼を言って次に向いました。次の学校のグラウンドではお年寄りが湯たんぽを持って火を囲んでいました。その並びには手作りの湯沸かし設備ができていて、しっかりと煙突まで付けられていました。気軽にお湯が湧かせるだけでも、生活は大きく違うはずです。素早くローテクな生活を作ることができる知識や知恵を持っていることが如何に大切か考えさせられます。


気仙沼でも名取でも被災された方々の悲しみは同じく重いと感じ、自分にできることなら精一杯しようという気持ちでいた反面、どうしても名取のことが気になり葛藤が続いた2日間でした。結局予定通り16日には名取に戻ることになり、ほっと安心したと共に、やはり今後は名取を離れず築かれつつある名取の被災者の方との関係を大切にしたいと心に決めて帰りました。