東日本大震災・名取の報告(3/30〜31)


今はオランダのデルフトという街にいます。
ここでの生活に慣れないと…と思いながらも、震災のことが頭から離れません。
ということで、
少しでも記憶が新しいうちに、ここに名取の報告を載せようと思います。




写真は3月31日です。



3月30日、山形空港から入り、レンタカーを借りて1時間半ほどで名取インターに着きました。名取インターは名取市で大きな被害にあった閖上地区に近く、そこらじゅうに瓦礫が転がっていました。高速から見えた東北ならではの険しくまた美しい山の雪景色から一変し、これが震災の姿か…と息を呑みました。寝泊まり件事務所として滞在させてもらう東北国際クリニックまではそこから10分ほどです。瓦礫や傷ついた船やぼろぼろの車が道路の脇によせられていました。


翌日31日、朝一番で私の前任者の友人に付いて避難所になっている小学校に行きました。この日以来、ほぼ毎日どこかの避難所に行くようになりましたが、扉をあけるときはいつも小さな緊張がありました。扉をあけた瞬間に感じる空気は避難所ごとに異なり、自分が入って大丈夫か、まずいのか、なんとなく感じるものです。初めてのこのときは友人と一緒で、入ってすぐにその友人と親しくなっていた女の子が2人飛びついてきました。その後、彼女たちとはときどき避難所に行く度おしゃべりするようになったけれど、名取を出る日、時間がなくてちゃんとバイバイもできないままで申し訳なく思っています(本当にごめんなさい…)。学校が始まってからは、閖上小からその避難所の小学校に移って新しい友だちができたよ!って嬉しそうに話してくれてたけど、寂しいって言ってこない分胸が痛くなりました。避難所には、家族や仲間を探す張り紙、判明した行方不明者のリスト、役場などからの今後の手続きについての案内が体育館の壁を一周するように張られていました。ひとつ見る度涙が出て来そうで、見る時は泣かないよう気をつけて見ていました。


午後から別の避難所に行きました。避難所を医師、看護士でまわるモバイルクリニックは一応3月末で一区切りをつけようとしていて、私にとっては最初で最後の見学でした。看護士さんたちが到着するまで待ちぼうけだった私に、入口で煙草を吸ってるおじちゃんが話しかけてくれました。どこから来たんか?と。そこからしばらく震災当日のことを話してくれました。年寄りに逃げようと声をかけたけど頑固だからなかなか聞いてくれなかった、津波警報を本気にして逃げる準備をしてるこっちが笑われるくらいだった、公民館の高さを余裕で超える津波だったから公民館に逃げては駄目だった、逃げる前に鍋の熱湯がかかって火傷したけどそんなの無視してとにかく逃げた、離ればなれになった息子とは小学校で再会できた、水で溢れる一階からなんとか窓から上に登った…。涙をこらえるのに必死でした。おじちゃん、感情を大きく現すことはなかったけれど、話は止まらずでした。そして、ガソリンの盗難の話をしてくれました。避難所に停まっている車でさえ夜間にガソリンが盗まれるため、ずっと見張りをしないといけないと。一番腹立つのはこれだべな…と言って。物の奪い合いが起こらない日本はすごいんだ、とそんな報道を何度も関西では見ていたけれど、現実は少し違いました。報道の片寄りを初めて実感したときでした。


始まったばかりの頃のモバイルクリニックはきっと大忙しだったと思いますが、この日は受診を希望される方もさほど多くなく、31日は落ち着いている様子でした。避難所には全国の県や市から数名の保険師が数日単位で交代で常駐していて、健康相談はいつでも受けれるようになっていました。けれど、多いところだと300人を超える避難所があり、全員の健康管理を数名の保険師の方ができるとはとても思えず、心配は耐えない状況でした。いつも飲んでいた薬を全て流され不安を抱えているお年寄りは多く、また衛生管理の難しい避難所ではインフルエンザが出てしまうことも少なくありませんでした。そんな中なので、医師が定期的にまわってくる、というのは重要なことだったと思います。


避難所から東北国際クリニックに戻ると、メンバーはすでに陸前高田に移動していて、この日から看護士、医師、東北国際クリニック・地球のステージのスタッフのみなさんとの生活が始まりました。